1999(1)

直感、というのはあてにならないし、
思いつき、とかいうのは、危険なものだ
何度となく、経験の中でそういった事は理解しながらでも、
あえて無視して、どんどん行ってしまわなくてはと思うときもこれまたある

このことは、今から思えばそういった類いの出来事だった

兄の家を手がけていた大工が、ちょっとというかかなり変わった人物で、
兄が過日SNSで「ヘンタイ大工」などと称していたのが面白く頷ける人物だが、
その際に面白い物件があるのでそれを手直しして住まないかと提案して来た
いまから思えば酒代が欲しかったのだろうが、
話を媒介した兄もまた随分と無責任なもんだ
もし僕ならば絶対しない
H大工の個性は心得ているはずだし、
結果はよく転んだからいいようなものの、
いまから思えば相当なリスクだった
でも、それも承知の上で、自分は当時変化が欲しかったのも事実だ

たしか四条河原町下ルの桃園亭だったと思う
酒席には兄も居た
(完全な脱線だがグーグルマップで調べると、
桃園亭は場所はそのまま、店はビルの13Fに変わっていて驚いた)
中華料理をアテにして、グラスにビールをなみなみと継がれながら、
面白い物件があるのでそれを手直しして住まないか
と、おーんなじ事をまた聴かされて
それについては酷く否定的だったのだが、
僕がどんなに厭がっていてもまた次の日には電話をかけてきて
また如何ですかと繰り返す
人の顔色では己の主張も変えないのは流石と思ったが
それはそれでいや待てよと思ってしまったのが運のつきだった
アテにされたのは僕自身だったのかも知れない

その面白い物件とやらを、とりあえず確認してからと思い
後日地図を貰い単車に跨がって冬の街を現地へ駆けてゆくと
目に飛び込んできたのは衝撃的かつ異様な風景だった

訪れたのは冬の夕暮れだったので、不気味そのもの
肝試しにはよいのかも知れないが、あまりに怖すぎる。
流石ヘンタイ大工は目の付けどころが違う、
または正気の沙汰でもないのか、
とあれこれ思ったものだ
写真にある筒のようなものは植木鉢で、
近所の人が勝手に配置していたものである
だれが捨てて行ったか分からない単車や、アンテナみたいなものもあった

それでも懲りない僕は、チルチンびとなど読み漁りながら
奇跡など起こるに違いないと思うようになっていたらしい
そうこうするうちに年が明けて、あっさり契約を決めていたからである。
それほどの大金など身の丈にあわぬと思って断りを入れたが、
口の減らないヘンタイは
「いえいえ、その身の丈にあうように人生努力するもんですワ」
とかなんとか。
今から思えば、よーいうわ、てなもんだが、
そうは思いながらも、一理あるかもな、と素朴でバカな当時の自分は考えたのである。
そのバカを後押ししたのは他ならぬ自分で、
独立心と言えば聞こえがよいが、
当時会社から借りた一室を早めに離れて
本当の意味で自活しかたったという思いもあったのだ。

今から思えばハイリスクな選択だったのだが
冒頭にも書いたように迷ったときはなんとかなると思ってしまおうと決めてしまうときもある
良いのか悪いのかは今でも判断がつかないが、
これはこうなる運命でシナリオにはとうの昔に書かれていた事なのかも分からない

1月21日の昼休みは銀行に融資の相談に赴いた。
融資は不動産の評価価値によってきまる。物件の中で家の価値は、数字にないが
当時は日頃からビジネスでも接点があったので前向きな感触を得た。
その後実家の両親に意向を伝えに帰ったのだが、
どうも話がかみ合っていなかったのか、
本当に契約をしてしまったので後で驚いたとのことだった

23日は身近な京町家のリフォーム事例を参考にと、
当時四条にあった「四君子」という呉服屋を見に行った。
京都市内に成功事例数々あれど、ここの場所は美しく見応えがあり、
たいそう感心してその後も数度足を運んだのだが、
ご存知のとおりイタリヤードが経営破綻すると、
どこがどうなったのかあっさりと解体され、
一体あれはなんだったのか、夢幻だったのかと思うくらいで、
いまは四君子がどこであったのか思い出せないくらいである。
24日には売り主の承諾を得られたということなので、
ヘンタイ大工と不動産会社に行って、とりあえず不動産購入申込書に記入。
此の日は当時一人暮らしをしていた4畳半に私が足を踏み入れてから
丁度一年目の日ということで因縁めいたものを感じた。
25日は動きがなく昨日の申込書をファックスしただけに留まる。
この日は一人暮らし一周年。確かその前の年は雪が降ったと記憶していた。
翌日評価証明と登記簿謄本が銀行へ回ったと連絡の電話があった。

29日、事態は急展開、31日に売買契約を結ぶことになった。
但し、融資が受けられなければこの話しはチャラで手付け金は戻る仕組みだ。
この日、昼休みに車を飛ばして銀行へ行き、定期を解約。
通帳の中身が急にうすっぺらになったような気がする。
会社が終わってから四条の不動産屋さんにゆき、
重要事項説明書の読み合わせを行う。物件にガスが来ていないことが分かる。

31日、朝の9時、現地に着く。改めて物件を見て、その荒れ具合に再度萎縮する。
隣家との間に約1m幅の里道(実際は道ではないが、以前に道であって、
法規上では公道のため売買は出来ない)があるらしい。
再度家の中に立ち入ってみると、思いの外狭い。
雨漏りのまま放って置いてあるので、
天井の一部に孔があき、その下は畳が腐食してカビのために黒くなっている。
酷い状況だ。やはり不安になる。
ほどなく近くの現地の不動産屋さんに行き、売り主さんと売買契約を行う。
昼からは大阪に出かけてバンドのレコーディングのミックスダウン。

2月7日、兄に同席して貰って長谷川工房と請負契約。
16日、やっとのことで銀行から融資オッケーの返事を貰う。
さて、これからが大変だ。
21日には参考のために工務店が以前手がけた兵庫県氷上の民家を見せて貰う。

3月は銀行の事務手続きのために動きなし。ひたすら待つ。
その間に本を読んだり余所を見に行ったりして構想を練る。

4月2日、遂に決済日がやってきた。
仕事場に断って銀行に赴くと日頃は立ち入れない一室に
銀行の営業担当、司法書士、不動産屋、工務店、売り主など
ずらりと多種多様な首が並んでいた。
指示を受けるがままに、この日のために用意した実印をつきまくる。
0の数のやたら多い小切手が右から左へと動き、
どきどきしているうちにすべてが終わり、
この日決済に使った通帳に、あり得ないような数字が刻印されて返されてきたのであった。

3日は、朝一番、
前日に頼んでおいたご近所へのご挨拶の「味噌松風 」を
松屋常盤さんに引き取りにゆき現場へ。
すでに工務店の一行が現地入りしていり、
不要な部分の解体が始まっていた。

庭に伸び放題だった竹も刈られ
すぐにトラックが一杯になる。
今回は改装であり、上棟式はないので、昼飯を振る舞う。
夕方にはゴミの処分も終わり、私も帰途に。

4日は両親が現場を見たいと言うので再度現場へ。
桜が綺麗に咲いている盛りだったので
父親は「綺麗な桜と汚い家が見られたのでよかった」との言葉を残し引き上げて行った。

7日は河原町で工務店の2名と河原町で打ち合わせ。
打ち合わせがはねてから馴染みの「OUT LOOP-WAY」でさらに一杯引っ掛けて帰る。

9日早朝は大きなサイレンの音で目覚める。
当時居た場所の近くのイノダコーヒーで火災。

10日夕刻に河原町で打ち合わせを行い、
さらに11日夕刻、現場で再度打ち合わせ。
さくらは散り初めで、窓一杯の景色に花びらが舞う。
具体的なことは大して決まらず、大工は「まぁ、ゆっくり悩んで下さい」とのことばを残して大阪の現場へ。
12日は気を取り直して現場監督の女性と再度「さらさ」で打ち合わせ。
この晩は、活発に意見を出してくれるので、ややイメージが固まった。

13日、奥半分の部屋をフローリングにするか、畳にするか、
現場監督の携帯に電話して、一日待って貰う。
結局、全体のトータル性や可能性を考えて、結局フローリングに決断。
実家の部屋では断熱材が入っておらず酷く寒かった記憶があるので、
厚手の素材を選び、断熱材を入れて貰う事にする。
18日、大阪の現場に出ている大工が京都に戻ってきているので再度現場で打ち合わせ。
元の床の部分や、天井が綺麗に取り去られ、床に隠れて見えなかった下の地面も様子が分かった。
南側の半分が大きく抉られてこの部分に半地下の部屋が設けられる事が判明した。
思案したが、無理をして予算を増やして対応してもらう事に決定。
19日は報告をかねて実家へ戻る。
20日にはGOサインを出して、とりあえず内装は省きスペースを確保するための最低限の工事はやってもらうことになった。

その頃は平行して兄の家の工事も進み
既に逞しい外観を現し始めていた。
徳島の木頭の図太い杉の木が縦横無尽に組み合わされている眺めは壮観の一言に尽きる。

29日、久しぶりに現地を訪れると高い屋根の上で瓦屋の職人さんが頑張っていた。
ボロの家にま新しい瓦がまばゆく映り、その中にキッチンの上に当たるところにトップライト(天窓)が取り付けられていた。
その後今後住まうことになる町をぐるりと見て回った。
歩き疲れてくたびれたが様子がなんとなく分かった。

黄金週間から兄の家の壁塗りが始まったのでそちらに参戦することになった。
兄の家は新築ながら昔ながらの手法で
竹の木舞(これは親爺が寸法に合わせて切って準備したもの)
を編んでその上に土を塗りつける、
という大胆不敵な試みを、それも素人が寄ってたかって行うことになっていて、
私自身も問答無用その頭数に加えられていた。

結局思いの外時間はかかり、兄夫婦もダダ疲れであったが、
そのうちになんとかなっていったから不思議だった。
こちらのほうは8月半ばに全て整い住み始めることとなった。

そうこうしている間に現場には事件が起きた。
地下室を設ける目的で、掘っていた地面から地下水が出てしまったのである。
(いま考えると、この場所は昔水道が整備される前は
地域の生活用水を汲みにくる場所が傍らにあり、不思議はない。
向日市はこのようにあちこちに水脈がある)
後々工期を遅らせ、費用が嵩んでしまった原因となったがしょうがない。
現場に行くと、みんな泥まみれで、
水たまりとなったところに杭を打っていた。

おまけに掘削した部分から中途半端な以前の基礎が見え始め、
結局地下を拡張すると、家を支える物がなくなってしまうことが分かり泣く泣く埋め戻しとなった。
これがなければ、地階は最強の広さとなっていたのに、残念だ。
この六月の間、大工さんの仕事が始まったが、家には痛々しいほどのつっかえ棒がしてあった。
大黒柱の地盤が不安定になりはしないかとの懸念によるものであった。

26日、二週間ぶりに現地を訪れると、いつものベテランの大工さんがひとりで頑張っていた。
布基礎のコンクリートも乾いて、元の地盤側の埋め戻しも済んでいたし、
大黒柱のつっかえも取れて、根継ぎをした上で自然石の礎石の上に立っていた。
いまどき石場建ての家なんてそうそうはお目にかかれまい。
この石もわざわざ余所で貰ってきて二人がかりで運んだそうだ。
素人目には分からないが、堅さや形状などにおいてどんな石でもいいという訳にはいかないそうだ。

苦労とも他にはあって、昔の家の造りだけに微妙に歪んでいて
板の間の床もその傾斜に従って作らなくてはならない。
丸太梁も露出しているようにしたため、
それにあわせてボードを幾度も採寸しながら切って寸法合わせをしていた。

この家は結構風通しがよくて気持ちがいい。
年間通して過ごしやすいのでは?との事だったが
住んでみるとやはり夏場は暑かった。
蚊は多い。仕事中も蚊取り線香はかかせない。
そういえば風呂場の屋根の上でカラスが大喧嘩をしているのに遭遇した。

現場監督は「まだ家がダダをこねているのが分かる」と言っていた。
無垢の木のフローリングの床が張られて
(無垢の木は管理がしにくい上に、冷暖房に弱く、下手をすると反りを生じるそうだ。
しかし使い込むほどに味わいが増すときく。)
壁土が塗られると、とたんに息を吹き返すだろうか。その時が待ち遠しくなる。

7月は床を張ったり、梁の上に立ち上がる壁のためのラスボードを張ったりと
大工さんの仕事が続いた。

7月30日。銀行の用事を済ませて現地へ行くと、珍しく職人さんの姿はなかった。
季節は紛れもなく夏。すさまじい蝉の声だけががらんとした家の中に響き渡っていた。

8月前半は左官屋さんの仕事が主だったところであった。
8日の休みには私も出かけて天井と梁の掃除にとりかかった。
月末には南側のクソ汚いボロ壁も見事に撤去された。

28日はサッシの清掃をしたが、すさまじい汚れでガラスクリーナーが一本カラになった。
大工さんが「ちょっとあれもってなぁ~」と言うので少し手伝う。

9月4日現地を訪れたときには既に大部分が整っていた。
特に南側の外壁には見事に綺麗に杉の無垢の板が張られてまったく違う印象の建物になっていた。
月半ばにはシステムキッチンが入り、建具が入ってハイ出来上がり。

25日を引っ越しの日としたが、全くドタバタで感慨に耽る間ももなく、
引っ越し当日は搬入された荷物の中、
とりあえず布団にくるまって寝たが
それからもさらにめまぐるしく時間は過ぎて行くのであった。

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